(毎月発行の『連絡紙』より)

●令和元年12号

吉本興行の闇営業問題…確か7月に問題が発覚した。有名なお笑いタレントが色々な爆弾発言をしたかと思えば、急に話が萎んで現在に至っている。わからないなあと思いながら、今は誰も話題にしない。あの発言はどうなったのか…有名なお笑いさんは相変わらずテレビに出ているがこの問題を話さない。マスコミも無責任で今は一切触れてこない。 
  当時ですら、問題がどこにあるのか判らなかった。問題の発端である闇営業を離れて、吉本興行自体への批判となっていて、うやむやになって行って萎んだ。
 問題の発端は反社会勢力との付き合いだったはずで、この問題が、契約が交わされていないとか最低給与の保証がない…などと際限もなく広がって行った。
  筆者が興味を持ったのは、売れていないお笑いさんたちは何を思っているのだろう、という事だった。どうせと言うと差別発言に取られるだろうが、どうせ芸人は笑われてナンボの人達なのだから、彼らにまともな行動を求める方が間違いなのだ。
  筆者が知りたかったことは、彼ら売れない芸人は芸人ではなく勤め人になりたいという事なのだろうか、という事だった。芸とは何ぞやを含め、自分は何に命を懸けるのか、という事だ。ここが明確でないと売れさえすれば良しの人となる。だから逆に永遠に売れないし、今回のように、問題外の発言を正当であるように錯覚できてしまう。
  そういう噺家一門が江戸落語にはあって、今もある。日曜夕方の長寿番組にもこの一門から2名がレギュラー出演している。
  だが面白いかどうかは主観で、それは聞く側・見る側の感性への訴え方だ。江戸落語がその視点の違いから揉めて、この一門をはじき出した。江戸落語の常設の寄席で演じることができなくなって、新しく寄席を作って今も講演を続けている。
  だが、はじき出された一派の落語は私には総じてつまらなく感じる。彼らの笑いは、意図して作った笑いでむしろ神経が逆なでされる感覚になる。噺家個人の味が伝わらないでは笑いにならない。話芸だけでなく芸の全ては個人の味が出て成り立つ。
  江戸落語に対して、大阪落語は登録した途端に真打(師匠)になる。面白いかどうかを登録する時には問われない。面白くなければ笑ってもらえない…それは自己責任だ。江戸落語をはじき出された一門のように(彼らの全てが、そうだともいえない話し手がおられるのかもしれないが)形だけの話は芸ではない。
  それなのにマスコミは芸人に反吉本の立場でのコメントを求めた。売れない芸人は自分の人間磨きの不足を知ってか知らずか、マスコミの求めに応じた。誰かが口火を切ったからオレも悪口を言おう…というコメントが殆どだった。後難を覚悟してコメントしていたのは数人の様だった。どうにも自己責任を根拠にした芸人に思えなかった。だから売れないのだ。一度ウケたとしても一発屋で、客がその芸に慣れたら萎んで再び浮かび上がっては来れない…。
  頭撥ねの金額が異常に大きくて自分の貰い分が少なくて不満なら、吉本を止めたら良い。生活ができる金が入るから笑いが面白くなるわけではないのだ。理不尽の中にいる『修業(修行ではない)』だから、結果として面白くなるのだ。それが不満だと思っているうちは自分だけの芸に到達できようがない。
  今回の問題で発言を控えた人たちはそこが判っている。売れようが売れまいが自分の・自分たちの笑いとは何かに常に拘っている。ウレてなんぼではあるが、ウレる努力のヒントである違和感を常に探している。探さずとも常に気づこうとしている。
  自分の感性と社会の常識の違い(違和感)から笑いは生まれる。そこを探そうとしないで、私の芸は面白くないけどそこそこの給与を下さい…はあり。だが、それでは客を馬鹿にしている。何より芸を見失っている。芸人は半端者だから芸が実るのだ。満たされた生活から良い芸が出ることは極めて少ない。芸に拘っていないでプロには成れないのだ。




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