(毎月発行の『連絡紙』より)

●平成31年2月号

 ドキドキは生きる常の姿だ。それなのにドキドキすることを異常で悪いことだと錯覚する人が殆どだ。ドキドキすることでヒトという猿は生き延びて来て今や地球を壊しつつある。
  ドキドキは挑戦する姿でもある。そして挑戦すること・挑戦させられることが普段の生きる姿勢である。
 こうだったら・ああだったらと言ってみたところで現実は変わらない。ヒトは生まれたら、不都合の中を生きるようになっている。だからドキドキヘの挑戦こそ、ありきたりと受け入れねばならない。
  ドキドキするから異常な力が発揮出来て、クリアできる。クリアできるから、ヒトはどんな環境にでも順応できる。限界などは言葉として存在しても、現実には存在しない。ただドキドキに負ける人が存在させているだけに過ぎない。
 ヒトは火事場の馬鹿力で生き延び、進化してきた。火事場の馬鹿力は必ずドキドキから始まる。このことを会得していて・会得させられて、それを実践している…それがいわゆる達人と呼ばれる人である。
  達人はいつもドキドキしているし、ドキドキする対象を常に持っている。ドキドキの対象を常に持つ…つまりテーマとか目的とかこだわりとかを自分の裡に確認し、意識させられているのだ。
  だから達人はドキドキし、ドキドキさせられているが、それを普段だと思っている。思っているというより、逃げてみようのない普段の状態なのだ。事実、テーマとか目標とかこだわりがあってこそ自分個人を生きていることになるのだから、それが普段でなくて何であろうか。
 ドキドキする対象を常に持っていてこそ健常なヒトといえる。逆に言えば、ドキドキしないことこそが非日常である、と達人は知っている。だが多くの人はこれと逆で、ドキドキしないことが平穏で、普段のことだと思いがちだ。ドキドキしないことが平穏であることに相違ないが、それはほとんどあり得ない。むしろドキドキを避けて存在させるだけで、それは避けることに長けた惰性の生活しか意味しない。
  怠惰な人は退職しても怠惰だし、達人は別の世界に行かされても達人に成れる。達人はドキドキを生きる常と心得ているからで、だからできない事や新しい事に挑める。結果として達人の生き方をしてしまうのだ。
  達人はドキドキを日常だと思っていて、ドキドキに振り回されない。行動時は無心・集中せねばやったことにならないことを体感している。周りのせいにできない事が判っているために、自分の出来ねばならない事に頑なになって周りから浮き上がることはある。 
  それほど程に余裕のないのがドキドキ=違和感の取り込み、という事だ。だから生きる事に余裕なんて無い。元々、生きるのに余裕を持つ必然など無いのだ。余裕ないことを常だと思って現実を受け入れる…それだけなのだ。
  達人に限らず、ヒトはドキドキするから可能性を広げてゆける。ドキドキは可能性の広がることなのだ。それなのに私達の多くはドキドキするだけでそれを不幸と呼ぶ。
  ドキドキは普段のありきたりのことだ。その会得に手間取って本番に間に合わないとしてもそれは何の恥でもない。
  ドキドキの度合いが大きいほどその人には重大な問題と言える。そして重大な問題なのだから簡単にクリアできようがない。真剣に取り組むしかないのだ。
  ドキドキすればするほど、絶対に逃げない。大会や本番は努力した事の発表会でしかないのだ。普段やらなかったことができるわけがない。できたとしたって、なんの意味もない。達人はそれこそを恥ずかしいと思える。
  逆に言えば、恥でない事が判らないのはドキドキを見つめなかった事の証明になる…。達人はありきたりの事がどういう事なのか判っている…。ありきたりの中でドキドキに対して緊張し集中して生きる…そういう生きる目線があってこそ、普段の普通の生き方と言えるのだ。




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