(毎月発行の『連絡紙』より)

●令和元年5月号

 滝打たれ健魂では良い人になるなという。そう言わねばならない現実がある。『私たちはそれほどに良い人になりたいものらしい。
 なぜ良い人になってはいけないのか…それは良い人は周りにとって「都合よい」人しか意味しないからである。つまり良い人とはそこに「どうでも」が付く「どうでも良い人」を意味するからであるからだ。
 そして自分も相手のことを真に大切には思っていない。その時だけ良い顔をしているだけである。
 「その人は商人ですから良い人になろうとしているんですね」とそういう「良い人」人を説明してくれた人がおられたが、そうなのだろうか。その程度を商人と言うのは、商人を馬鹿にしていると思った。自分の為に品物が売れればなんでも良い…程度の考え方で商う人を商人と呼ぶことは明確に間違いである。
 それは自分の為に客がいるという考え方であって、その考え方は間違いだからだ。客の為に自分がいるという事が判らないで商人です、というのはすごく恥ずかしい間違いだ。当然そういう商い行為は続かない。客とか相手の為に本当に必要なものは何かを考えて、その結論を提示し、客に喜んでもらう…そういう啓発行為が本来の商い・商人なのだからだ。
 話がそれたが、自分の為にまわりの人たちがいて、その時だけのおべっかを使って孤立することを避けようとする。…「良い人」とは目先の孤立を避けるために、本心でない言動を辛抱強くできる人を言う様だ。
  だがそうやって「良い人」になったところで、本心でない言動は周りに便利しか届けられない。しかもどうしてもやってもらいたい便利でもない…。本当に心通じる訳ではない言動を本心でなく行える人…いきおい「悪い人ではないようだが…」という評価になってしまう。もっと正確に言えば「悪くない人だが、良いこともしない」と言う評価となる。繰り返しになるが世間でいう良い人とは、その上に、どうでも良い、が付くのである。周りからは積極的に必要とされていない事の意味となる。
  自分で自分を軽んじている…そのことに気づかないことは辛い。厳しい言い方になるが、その程度の人生で良いのか…と思ってしまう。
  だが、そういう評価をする周りの人も辛い。評価する側も都合よければ良い人、都合悪ければ悪い人…でしかないではないか…。
  共に「社会の為」と言う意識が抜けている。社会の為ではなく「孤立しないため」が最大の価値観である。そんなことでどうしようというのか。周りの風向きを無視しても生きて真実生きた、と言えるのに、だ。
  滝打たれでは「煙たがられる人になれ」という。煙たがられているが、信用はされている。だから、いざという時には頼りになる…と周りからと思われている。その代わり、普段はあまり近づく人はいない。世間とはそんなものでしかない。いや、真実生きている人は、周りなどどうでも良いのだ。それは我利我利亡者という事ではなく、自分と向き合うことができているからなのだ。
  煙たがられる人とは、このように孤立を常と思える人だ。自分を自分で監視下に置き、すべき言動を行う…。対して孤立を恐れて、ウケを狙って生きる人は多い。そういう人は永遠に煙たがられない。その代わり永遠に良い人でとして、自分に無関心な人たちの輪の中にいられる。
  そういう良い人になって安堵する…情けない人生だと思わないことが辛い。ヒトは裸で生まれて裸で死んでゆくだけじゃないか。評価するのは自分だけだ。自分が自分に愧()じないか、だけだ。自己都合を中心に行動しているから愧じが生まれるし、その愧じを本人は知らないのだ。
 だから「やってやる」仕事になり、「させていただく」仕事ができない。この目線を養うことなく物ごとが達成できたとしても、それで終わりだ。
 その実態は(どうでも良い人)でしかないのだが、困った事にそういう人は孤立してないことを良い評価だと錯覚できている。孤立していないが必要にもされないのは、真実孤立している事なのに。





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