(毎月発行の『連絡紙』より)

●令和元年6月号

 「わからなくともやって行く」が自主自立を目指す態度だ。正確には「わからないからこそ、自力でやる」であろう。
  滝に来て、「一丁前になったなあ」と思わせられる人は、ここに目が行き、行動できている。
 滝打たれに来て自主自立をクリアできても団体や私が助かる事はない。そこまで自力でやってこそ個人の人生…という事が、そういうヒトは判っているのだ。だが社会を見回すと、多くは、言われてからやる。わかっていたとしても、言われるまでやらない、いや、やれない。しかも言われた事しかやらない。それじゃあやった事にならないのだ。それなのに、言われるまでやらない。
  失敗をしないために行動するのではなく、判るまでは失敗続きなのだ。それがヒトなのである。失敗があるから前に進んで行けるのだ。それなのに、せっかくもらった失敗を直視しないで、コトが終われば終わりにして、失敗の分析も反省もしない。だから学べず、次も気づけない、自分から動くことはない。だから生きるテーマを見いだせなくなる。 
  そういうテーマを持たない人が、自分を集団の中心に置こうとする…。だが普段から自力での失敗を受け入れていないから、目の前にある問題に気づけないし気づいても自分じゃできない、となってしまう。
そういう人はできないための理由探しが上手で、家庭の都合とか時間がないとか色々と言う。だが分かる人にはそれらが理由にならないと知っている。理由にならない事が度重なれば人は去って行く、自業自得。
 それでも中には、気づく人もいる。しかし自力でやってきていないから、失敗の意味を知らず、自分じゃできないと考えてしまう。そういう人が結構おられる。その段階で自習自立を閉ざしてしまう。  
  失敗の意味を知らない人は自分で考えることができない。だから一人で考える段になると、どうしたら目先の利になるかならぬか、だけを考える。そういう人も多い。
  だが、そういう人は何をやっても自立にはつながらない。そういう人の多くが、効率だの経費だのと言う。目先の利だとか効率だとか経費だとか言ってはみるが、そういう数字が何を意味するかを考えない。ダメな理由としてそれらを挙げるが、それ以上のかかわりを持とうとしない。つまり安直なところで話を終わらせてしまう。だから学びが何も生まれて来ない。
 …学べない行動に何の価値があろうか。学びは手間がかかるもので、その手間のかかっている間は苦しくてならない。学ぶのに効率の良さとか目先の利だとかなどは、存在してみようがない。だが考える苦痛から早く解決できるために、数字や効率や目先のことを挙げて納得するし、納得させられてしまう。
 数字で表わされるような人生は程度が低いと思うが、そんな程度の低い小さな人生であるのに、周りと比較しビッグになったと称する…そうやって自分の価値を自ら下げてゆく。
 一切一人で処断する…それが自分を自立させる唯一の方法だ。そういう思いの実践が難しくないが苦しいからなかなかやろうとしない。そして一切一人の意識を皆が持たないから、自主自立の人は目立つし異端視される。だがただそれだけだ。異端視されるという事は、一目置かれていると同義だ。
  判らないから出来ない、と多くは言う。だが分かっていても、なかなかできないものだ。判っているから完璧にできるのではない。会得し完璧にできてから判った、となるものなのだ。頭で判ったところでできるものではない。頭で判る事と身につけることとは大きく違う。それなのに、判らないからと言ってやろうとしない。
  やってもいないのに判るわけがい。判らないから失敗するし、失敗するから少し判るようになる。少し判るようになって、繰り返して身につく…それを一切一人で行う…修行というものがそうだ。思えば生きること自体が修行であるのだ。





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