(毎月発行の『連絡紙』より)

●令和元年7月号

5月28日、ニュースは川崎の殺傷事件ばかりだった。悼まし過ぎる事件が起きた。悼しいからこそあえて本音を言わせてもらおう…と考えて以下を記す。
  何か事件が起きると「あり得ない事が起きた」とか「起きてはならない事件が起きた」とか言う。だがそれが現実なのだ。生きる基本を大人が忘れているだけだと考えている。 事件は何であれ、ありえないから起きるし、起きてはならないのだが起きてしまう…それが娑婆というものではないか。それに対して、防げないと言うが防げねばならないし、だけど防ぎようがないから事件は起きたのだ。
  大人が本気になれば防ぎようがない…とマスコミは一斉に言う。そして、守ってやるのは警察か?地域か?などとしたり顔で言う。だがそうなのだろうか…。
  簡単に言えば、自分しか自分を守れないという事だ。この事をほとんどの人が忘れているように思える。
  自分を守るのは親でも子でもなく自分で、守れない時は今回のような事件に遭遇しないとしても死んでしまう…という事だ。それが忘れられている、と思う。
 今回の事件では誰が守ってやるべきかが問われていた。良い環境を作って行くことは大事だが、それは明確に言えば政治の問題であって、しかし政治は個人を絶対に救えない。 個人は反社会的な存在であって、常に対立しているものだ。個人から見れば法律など邪魔でしようがなく、破るために存在している。一人で生きようにも生きられないから法律が調整をするだけだ。法律は大勢の調整はするが、個人にはタッチしないもの・タッチできないものなのだ。
  法律で済まないのが人生だ。それなのに今回のように、環境を整えて個人を守ろうとする…。その矛盾に気づけないマスコミ、そしてそのマスコミに疑問を持たない読者が多い。
  悼ましい思い、悲しい思いで通り過ぎようとする人さえ多くおられた。守ってやる守ってもらうは政治の問題で、政治で個人は守れない。個人は自分でしか守れない。個人の救済が他力であってどうするのか…。
  つまり生きるとは自分個人の事でしかないのであって、環境などどうでも良い事だと気づかねばならない。自分のことは自分が守る…守れない時は死んでしまうのが生きるという事…そこを自覚し、自覚させるのが本来の教育ではないか。というより明確には、教育の根本である。
  無事に済む環境の提示に教育があるのではない。そこをマスコミは指摘できない。そのマスコミと同じ視線で事件を見ている大人…大人が教育を判っていない証拠である。
  全て環境が悪い事にする…整った環境なぞ存在しないはずだ。何よりそういう温室栽培をされて生きたと思え、社会に反抗せず社会から逃れて個人をいじましく生きて、生きたと錯覚している大人が実に多い…。
  個人をいじましく生きて幸せという錯覚に気づかない…そして自分の生理機能がそれに反発しなくなって精神が病んでしまう。…個人を生きていないとそうなってしまう。
  自分を生きずしていじましく生きて、生きたと言える事は不幸を通り越している。そんな生き方は根本が不遜である。それは教育という存在を無視できているからだ。忘れていようが無視していようが、それは不遜・傲慢以外の何物でもない。教育の根本は自己啓発に尽きる。そこに気づかねばならない。
 例えばだが、滝打たれにやってくる人は即物的な目的の場合が多い。自己啓発という滝打たれの目線がなかなか通じない。自己啓発とはいつ死んでも仕方ない生き方を自分で自分に強いるという事だ。それが教育なのに、やれ超能力だのやれ健康だの、良い人だのとなる…それでもなお滝打たれに来てなにかしようとする人はまだましなのかも知れない。 教育の根本は自己啓発に尽きる。自分を守るのは自分で、守ろうとしてダメなら死ぬ…それを自覚することだ。そこをいやおうなしでやらされている国もある。環境でヒトは変わるのではなく教育で変わるのだ。





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