(毎月発行の『連絡紙』より)

●令和元年8月号

釈迦は苦行によって悟ろうとすることを諦めた。その途端、悟りが開けた。そしてその後再び修行に入った。苦行からは何も得られないと知ったから…。そう知ったのに、だ。 何気なく読んでいたが、変ではないか…。しばらくして気づいた。それは、悟りを開いた人なのになんで再た修行をやる必要があるのか…要するに、悟ったら修行は必要がないのに、という事だった。
  こんな矛盾ってあるのだろうか?。と共に、筆者は悟ろうなどと思って滝打たれをしているわけではないし、そんな大それたことを思ってもいない。とにかく自分を自力で立たせたい思いで滝場に通い続けただけだから、悟りというものについて深く考えた事がなかった。だからこそ、悟ったという人が再び修行を行うという事の矛盾に気づかなかったのだ。
  仏教の開祖の釈迦の悪口を言うのではなく、悟りとは、を言いたいのである。
  以下は、永遠の悟りはない、という事を言いたいのだ。あるいは悟りと人間性は別だと言いたいのである。
  だが真理というものはそういうものの様だ。だからヒトは永久の可能性を持つ。永久の可能性が煩わしく自ら消し去っている人は多い。だから永遠の可能性の存在に気づかない。
  宇宙は拡大と継続の維持の為に動いている。どういう状況になっても対応できる力を万物は秘めさせられているのだ。ヒトの個性もそういう物だし、全ての物に命を含めて個性が存在させられているのだ。
 どういう状況下でも対応できる力は潜在力ともいえる。だから潜在力は普段は不要品とかゴミ扱いされている。しかしゴミは叩かれると救いの神となって表れる。知は痛みだ。  それはさて釈迦の話である。滝打たれをやってきて感じるのは、ヒトは同じ課題の周りをぐるぐる回っているという事である。ぐるぐる回っていて、そして以前に判った地点へ来ると、改めて判ったと思う。
 改めて判ったという事は新しい現実とか奥行きが見えたという事だ。判るとは、新しい課題のスタートでもある。だから釈迦は新しい現実に対する修行を始めたと言える。
 人々に己が悟りを説きつつ、釈迦は釈迦しか見えない現実に対して、新しく修行を始めた…。但し、以前の釈迦のようにどんなに苦行であっても精神的には苦しまない。一度悟れば、それが普通だと身をもって知っているか特段の苦にはならない。
  釈迦に限らずという言いかたが不遜だと知りつつもあえてそう表現するが、新しい課題の新しい風景の中で、新しく判った事を手探りする、そして更に新たな判ったに出くわす…その繰り返しこそ、真実に至る順番である。大事なのはその新しく判った事は手探り前に判った事の濃縮版でしかないという事だ。仮に180度方向転換した新しく分かった事だとしても、濃縮版に相違はない。
  濃縮版ならば、判らなくても良いじゃないか…と考えるのは間違いだ。そうではない。濃縮版とは奥行きを広げて判ったという事なのだ。あるいは奥行きではなく、例外が判ったというべきなのだ。
  判るとは同じ円をぐるぐる回るようなものである。だが1回転ごとに高さが増してゆく。高さが増してゆくとは深みとか奥行きが広がって、そのうえで理解できているという事だ。あるいは渦巻と同じで、上に行けば行くほど回転の半径が広がって行くものだろう。
  大事なことは、1回転ごとに高さが増してゆくという事と渦巻が大きくなるという事だ。例えば1cm高くなっただけで、見える景色は違ってくる。例えば階段1段が30cmだとして、30cm高いところから見る景色はそれまでの比較ではない。見た人しか判らぬ景色なのである。
  永遠に同じ景色、つまり永遠の真理はあり得ない。地球も人も永遠に動いていて、動くから誤差が生まれる。誤差が生まれるから永遠の真理は存在してみようがなくなる。それでも永遠の真理を求める…悟りの本体は永遠にしか存しない。悟りの奥行きが深くなって行く…。それは安心の量を大きくする事でもある。





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