(毎月発行の『連絡紙』より)

●令和元年9月号

「テレビに出てくる子供は嫌いだ」。タレントのタモリが良く言う言葉だが、筆者も同感である。
  テレビに出る子供が嫌いなのではなく、子供の扱い方をテレビ局が知らない事に罪があるのだ。恐らくだが、タモリも同じ目線なのだと思う。  ニュースなどでインタビューに答える子供たちはかわいそうだと思う。テレビに映るだけで、子供は普段の自分で撮られないようにする。というか背伸びをする。大人ですらそうなのだから、子供はなおさら背伸びをする。それは当たり前の理だ。
  そして良い子を演じる。一様に判で押したように「良い子の返事」をする…。テレビ局も意図的にそういう返事を画像に載せる。
  ユニークであってこそ子供なのにテレビは理想の答えをさせてしまう。子供は親を喜ばせたくて平気で嘘をつく。そういうものだ。親の前では精一杯背伸びをして良い子にして見せる。そして間抜けな親はそれを我が子の普段の姿だと錯覚する。
  子が一人でいる時、あるいは友達といる時にも精一杯背伸びをするが、それは孤立しないためのものだ。中には大勢の思っている空気を読めず、良い子のままでいる子供もいる。そういう子は必ず孤立する、あるいはいじめの対象になる。
  いずれにしても子供は大人の社会に出ると、良い子を演じそれが習性になる。その習性をある時は「躾け」と言うが、躾けという建前であって、建前であるから本音ではない   それをニュースといわれても、画像を見る側としては、フィクションであることが明々白々なものだから、つまらな過ぎる。子が本来持つ自由闊達さがないと、ある意味不気味である。それをニュースなどで流されても、困る。
  そういう不自然なニュースはやらせとは言えないか…。子供だけでなくインタビューで映像が流される人は放送局が選んで決める。対立する感覚を平等に流したりはしない。
  人ばかりではない。災害などでも、すごい被災場所だけを映す。隣に被災していない場所があったとして、そこは写さないし、流さない。
  いじましい意図に気づかない「やらせ」である。ニュースでないならば、やらせもよかろうさ。ニュースに流れる子供たちは普段の生活のままに大人社会で良い子になって見せて、結果としてやらせに加担してしまう。
  やらせといえば、某国営放送の冬の白玉の滝滝打たれのニュース取材について同様な事があった。
  滝打たれの前日は猛吹雪だった。そして予報では本番の明日も同じ天気の予報だった。国営放送から質問電話が来ていた。前日午前中からの質問電話である。
  「明日はこんな天気でも滝打たれを行うんですか」とか「滝打たれはどんなものですか?」はまだ良いとして、それでも「昨年の白玉の滝打たれ映像があるんじゃないですか?参考になりませんか」と筆者は押し返す。「ええ、探すのが面倒なもんで、聞いた方が早いですし」と宣う。
  最終的には「青木代表に打たれてほしい」やら「最後の最後に一人で打たれてほしい」だとか言い出した。冗談じゃない。完全に「やらせ」になるじゃないか。それが判らないのは辛い…。そして当日、カメラマンは撮影に来たが、質問電話の彼氏は姿を見せなかった。一番唖然としたことは、質問電話だけで作られた文面をアナウンサーが読んだ事だった。
  マスコミは大人ですらも、そのように扱って平気でいる。それに疑問を思わない。聞きだすポイントは本音ではなく、視聴者で未経験者の他人様の、そういう彼らのイメージに受ける事を予想して行われている。そうした結果、何が伝わるのだろう。何が見ている人の励ましとかヒントになるのだろう…
  インタビューされる側も大人なのだから良いツラしないで応答すべきなのだが。いつぞやのインタビューで筆者が本音だけを言ったら全てボツになった。何を判断したのだろう。
  いずれにしてもマスコミは本音を聞き出す事をすべきだし、子供の扱い方を学べないと報道にすらならない。




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