(毎月発行の『連絡紙』より)

●令和2年2月号

個性を決めるのは遺伝子で、その数は二百を超す。予め配置された遺伝子で寿命を含めた自分の個性のままに生きてこそ自分らしく生きたと言える。他人の真似は意味がなく、社会の価値観と反する事があって自分らしさと言える。そしてひたすら自分の個性のままに生きて生きたと言える
 それなのに私達は貴重な個性を自分で別にものにする。周りと同じ感覚に対して変だと気づかないのは他人と同じ感性に満足している事で、つまりは個性を失念している証拠である。
  周りと同じ感性と言えば昨年は、我が子の虐待死に対して親を拘束しない事への疑問の無さとか、あおり運転をさせる側の罪に気づかない人が多かった。その中で最大に気づけないでいたのは「努力すれば夢は叶う」という事の肯定であった。これはずっと昔からの事ではあるのだが『努力すれば学べる・学ぶまで努力する事』が正しいのに、夢が叶ったから良しとする。覚めて見れば叶おうが叶うまいが、人生の風景でしかないのに、だ。 問題の根本に気づかないのはなぜか?。それは満足を得て終了にする日常を過ごしているからだ。根本を見ない日常とは終われば終わったという日常と同義である。全てが満足を得る事に終始しているのだ。満足に到達するとは微量な違いに気づくという事で、それが学びだ。学びは永遠なのに生きる終点に勝手にしてしまう。満足を得て終わって安堵すれば自分らしさを忘れてしまうのも必定だ。
 自分らしさの思い違いは満足する事から起きるから心揺れない楽しい時の自分が自分らしいと思う。明確な錯覚だ。スポーツをやってみれば判るがドキドキしている自分が自分、自分らしさである。なのに心揺れない楽しい時の自分が自分らしくて幸せと錯覚する。そんな社会となっている。
 だから面白さと楽しさの区別がつかなくなる。面白い自分とはドキドキしつつ丁寧に行動する自分であって、それがどんなであれ唯一自分らしい。それを錯覚する為に人はひ弱になって行く。生きることに不要な拘りを持ち、それを絶対価値のごとく思うのだから体が苦しむのも当然で、現代のストレスの殆どはこれである。
 不要な拘りとは三分後の満足を求めて行動をする人や良い人になりたい思いであって、楽して恥ずかしくなく学ぶ事を言う。楽して恥ずかしくなく学ぶ事などありえないのにあらせ様とするから、自分が作り出した勝手な拘りのストレスで心身を病む。
 不要な拘りで自分らしく生きられなくしてしまっている人は多い。例えば国会議員がそうだ。自分の議員という立場の維持で活動をしている。議員でなくても政治活動ができると気づいていない。
  報道関係者もそうだ。取材なのかヤラせなのか判らぬ映像を撮って電波に乗せる。すごくなると反射的に、どんな映像が視聴者にウケるのかを予想して、いつも同じ絵面の放送をしてそれに」疑問に思わない。そういう報道に疑問を持たないで信じてしまう我々こそが一番残念なのだが。
  満足にとどまる事は自分への罪である。心揺れない自分は生きていない。心揺れるのが自分らしい事だ。万物が成長を続けているのは絶対真実が存在していないからなのに学びを止めた安直な自分を自分らしいと仰り、満足を幸せと言える情けなさがある。
  成長して生きているから心揺れて自分らしく在られる。自分を成長させるシステムに則ってこそ自分らしい。自分らしい心の揺れこそヒト本来のストレスで、その苦痛は一過性であるから逞しく成長させられるのだ。
  対する勝手な拘りによるストレスは学ばせない。学ばないから生きる芯が生まれず、判断がつかなくなる。総論賛成各論不明の人は、例外なく芯がなく断捨離ができない。それは自分の拘りで行動をして、現実に立ち向かう事を行動原理としないからだ。
  このようにヒトには2通りの生き方ある。つまり2通りのストレスが存在しているという事だ。満足の達成で行動を終わる人と否応なしを生きて通り過ぎて面白かったと思える人である。楽しさと面白さは大きく違う。
  否応なしを生きるとは結果ではない。逃げず・選ばず・躱さずを続ければ済む。らしさに申し訳が立つのだ。




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