(毎月発行の『連絡紙』より)

●令和2年3月号

今年の白玉の滝打たれは1月10日に行われた。今年は暖冬傾向下にあって、積雪はゼロで雨降り。しかもかなりの大雨であって、恒例の夏の白玉の滝打たれの時より大雨という状況で行われた。
  雪など降っているわけでなく、気温も例年より4、5℃は高いのである。滝打たれ常連の方々は逆に打たれにくい事は予想されていて、それなりの覚悟を腹に秘めていたようだった。中には逆で、気温も水温も高いから楽だと気を緩めている方もおられたようだった。
  打たれ終った結果で言うと、滝打た常連のほとんどが苦戦をしていた。わずか1分間の滝打たれである。常連の中で、最初から最後まで落水の冷たさと寒い気温を無視してできた人は皆無に近かった。その中で普段から村松の滝場で打たれている人は違っていた。さすが、と思ってみていた。
  常連の中にははっきりと完敗という人もいた。もともと滝に勝てるわけがない。完敗と言った人はそこを分かっていての話で、普段の滝打たれのように、滝に対する儚い抵抗すらできなかった、という意味であったようだ。
  完敗であった証拠は、色々な雑念が浮かんでいたことにある。普段は思わない「冷たい」「寒い」「怖い」「長い」という思いがごちゃごちゃになって生まれ出て、場合によっては如何に手抜きをして打たれ終るかを、短い時間で考えているようだった。
  対して、初体験の人はそれなりに打たれていたように見えた。それなりに、とは、初回の滝打たれで味わう忘我、いや亡我になってしまうという意味だ。忘我、いや亡我は初心者ならだれでもなってしまう。ならないとすれば、その人は余程鈍感にできていることになる。だが忘我であれ、亡我であれ、1分間の滝打たれを雑念の湧くことなく終えてしまえた。
  …この差をどう考えるか、だ。常連さんに何が欠けていたかである。忘我亡我は滝打たれには該当しないのだから同じに考えるのは問題が違う。…それでも初心者の心に雑念は存在しなかった。対してなぜ常連には雑念が浮かんでしまったのかである。
  …滝打たれに限らずだが何事も経験をしてゆくと、「こういうもの」と思い込んでしまうものと出会う。心も体もそう思い込む。そして例外を想定できなくなる。例外だらけなのが滝打たれなのに、自分の中で過去の冷たさや水圧などが顔を出す。(その実、正確には覚えていなくて、ただ厳しかったことだけを思い出して、皮膚感覚などは思い出せないでいる)
  その想定の中で全力を出すとか集中するとかを確認したことにしてしまう。敵がどう出てきても全力で向かい切る覚悟…それは無理で、だからその違和を感じられることが大事なのだ。その為の覚悟である。こうだったら良いとか、ああだったから駄目だったは覚悟のうちに入らないし、入れてはならないのだ。良い時に力が発揮できるのは誰でも当然のことで、そうならば、滝打たれの意味は無くなる。悪くても居通せる事が大事なのだ。  更には、滝が導くその都度違う違和にしか自分を知るよすがは存在しない。つまり負けていればこそ、自分の色々な弱さ(=良さ)を見させてもらえる。滝は大負けしてこそ打たれた甲斐がある。何事も大負けにこそ学びのポイントがあるのだ。
  滝打たれをお清めだのお祓いだのという人がいるが、そういう人は学びに遠い存在である。何事もそうだが、学ぼうが学ぶまいが、その人の勝手なのだ。自分の命をどう使おうと勝手だからだが、だからこそ自分らしく生きてこそ、生きたと言える。他人と同じく生きてそれで良し、は少なくとも絶対に存在しない。その意味で安心して自分を生き切る事の安心の、その方向を知る事は大事だ。自分らしく生きる事が安心で、そのヒントは違和感にしか存在しない。意識と実態の差、それが今冬の完敗者の姿である。
  だが完敗と言えた人は、違和を感じていたからで、それはその人が、満足して生きている自分をどこかで疑問視できている証拠だ。これは極めて大事なことで、満足を目的とする人には違和を感じる意識がない。問題は違和を感じた時に、満足生活に戻るか学びの方向に進むか、なのだ




講話集トップへ戻る




トップ定例活動特別活動講話集今月の運勢@Christy