(毎月発行の『連絡紙』より)

●令和2年4月号

何でもそつなくコナせる人がいる。それなのに、コナせたことと別に自信を持てない人がいる。自信とは何なのだろう。
  考えてみれば、楽にコナせてしまうから自信を持てないことに気づく。コナせるまでに何度も失敗するから、その結果として自信が湧いてくる…そういう訳だ。なるほど、ヒトは経験の産物であって、何事も失敗して覚えて行く存在なのだ。
  …それなのに、失敗しないようにして行動する人は多いように思う。失敗しないで物事をなさねばならない、という事の多くは親からの呪縛である。親も失敗して物事を覚え大人になってきたのに、子に対しては失敗を咎める。
  それがなぜなのかを当の親自体が不明である事も多い。不明な人は窮余のあまり、周りに迷惑をかけるから、と言う答えを見出す。だが、ヒトはおぎゃあと生まれた途端に一人では生きて行けない存在で、だから周りに迷惑をかけて生きて行くものであるのだ。
  失敗は悪い事という理由の不明な場合が多い…失敗は悪い事であるという事を考えて行くと、答えは出ないはずだ。だから失敗が悪いという理由が不明なのは、逆に言うと失敗が悪い事ではないからだ。ただ失敗することは恥ずかしい事と親から刷り込まれてきただけなのだ。
  この失敗には二つあって、二つの違いは恥を掻くことの有無である。失敗をして恥をかくことは大事なのだ。というより、生きる姿の裏の姿と言える。対して、恥をかかない失敗は失敗になりえない。失敗をクリアしたか、失敗と思っていないか、である。
  失敗と恥じは成功に至るための恥じである。それなのに、恥を掻かないで成功しようと思う。それはあり得ない。だが成功しても恥をかいてなければ意味がない事を判っていない人は案外多い。
  失敗しないで終わったから良し、で切り上げる…だから失敗しない分、理解できておらず自信が生まれない…。これは当然の事だ。失敗しない分、想像力が湧かない。失敗しない分、うろたえる。何より、失敗しない分だけ、これで良しとして終りにしてしまう。そして失敗をした自分が恥をかいていることを無視できてしまう。
  失敗の心苦しさは恥ずかしさを思い知る事である。恥ずかしさを思い知ることによって失敗と向き合わざるを得なくなる。失敗と向き合う事が重なる事によって恥ずかしさが消えて行く。失敗をクリアすべき手段やクリアすべき考え方に至るからだ。
  学ぶとは到達していない自分を恥ずかしく思う事で、恥ずかしいと思えるのは自分の力不足を自覚できているからだ。自分の力不足は特に恥ずかしい事ではないのだが、ありのままの自分をさらけ出すことに慣れていない。ありのままの自分をさらけ出したくない思いがあるからだ。
  だがさらけ出さねば、理解に至らない。自分にとっての違和を感じなければ、正解を学べないからだ。うわべで他人に装ってあるいは良い人に装っていては、自分に失敗に違和が沁みてこない。沁みてこなくては違和と向き合えない。つまり学べない、そして到達できない、そしてさらにもっと学ぶ事ができなくなる。学んで到達して、さらに学ぼうとしてこそ、自信が自分に生まれる。自信はやっていることの実績から生まれる物ではない。やってきた事の恥ずかしさに苛まれる生き方への受け入れが自信なのだ。
  恥をかくことが常、失敗する事が常が人生なのだ。だから学ぶし、学びと失敗と逞しさとがイコールになる。それは、できてもできなくても不安だらけのままに生きて行くという事でもある。
  不安を感じなくするため、恥をかかないようにするための行動からは何も生まれない。振り返ればいつも恥ずかしさでいっぱい…それで当然だ。恥をかくものだし、行動についてまわる。失敗しないようにして生きようたって無理なのだ。でも家庭も社会も個人に良い人の教育をしている。良い人とは恥ずかしくない生き方のできる人を指す…ありえない。世の大人たちは良い人になれば成功すると本気で思っているのだろうか




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