(毎月発行の『連絡紙』より)

●令和2年6月号

今回の新型コロナ渦で、ヒトはなぜ死んではダメなのかを問わずにいる不思議がある。一様に感染を防ぐことに熱心で新型コロナを怖がってばかりで…。なぜヒトは死ぬと悪いのかを考えていないように見えた。それほど生死を考えずに済んで、同じ毎日が繰り返されると信じ込んでしまっている。もっと言えば明日も生きている事を当たり前に思い込んでいれる不思議がある。
  地球はその意志に基づいてウイルスを主導して、ヒトを間引いてゆくというのは筆者の個人的な思いに基づくものかもしれないが、どうもそれが正しいように思える。ウイルスは木から下りた「猿という人」が、何十億人まで地球上で暮らすことができるのかを問うていて、余った人を容赦なく間引いてゆこうとしている。
  18世紀の産業革命以降、人という猿は地球を壊し始めた。植物を栽培する事で食料を大量に得て、大勢をの人を養ってきた。食料の供給という点からすれば、だ。本来食べ物でないものを品種改良と称して美味しく多量に作られるようになった。そうやって多くの人が生存することができるようになった。人だけが、である。つまり地球を壊す事によって人は大勢存在することになったのである。
  だが地球は人だけが生きているのではない。この事を私達は殆ど意識できていない。例えば、長野の山と新潟の山とでは、山中のきれいさが違う。新潟の杉山は中々土に戻らない。対して長野の山は落ち葉が殆ど一年で土に近づく。落ち葉が土に帰るには微生物が肝要である。そういった目に見えにくいものを私達は生き物と思っていないようだ。更には共存共栄などと思いようがない。だが地球には人だけでなく、動植物・微生物・病原菌もいきているのだ。この事を私達はほとんどきれいに失念して、その上で地球を壊しているとも思っていない。それでもまだまだ不足で不幸と思っている人が殆どのようだ。
  地球には生物の適正規模というものがある。自然循環率というものだ。例えば、落ち葉を土に帰すには、○〇という微生物が1uに◎十万匹必要で、それは目に見えないが、余った〇〇は●●と言う昆虫が食べる。だから●●が1uに何匹いるかが判れば自然循環が正常化どうかが判る。更には●●と言う虫の数でそれを餌にする動物の生存数まで見えてくる。つまり地球は人の何百万倍もの数で生きてる微生物や病原菌などとのバランスの上にも共存共栄が図れているのだ。人だけが地球を壊しわがままして生きて行けるのではないのだ。
  正に地球は皆のもので、例えば新型コロナウイルスだっても地球にとっては必要な命なのだ。彼らの生きる世界が狭まって新型コロナの逆襲が始まっただけだ。
  だから今回の新型コロナは少しの犠牲者で終わったとすれば(それもあり得ないように思うが)必ず大逆襲に遭って、人類は滅亡の危機に出会う…それが地球や宇宙の摂理なのだ。地球としてはどんな生物でも適正規模の数の範囲で生きていて、その数を越えてはならないのだ。
 
だが人は滅亡しない。助かる人は必ずいる。人が全滅すると他の生物も生きて行けなくなるからだ。善行とか倫理とかの社会規範の有無で生き残るのではない。それはあくまで人の価値観でしかない。地球による人の間引きは数だけで行われよう…。
  人と言えども地球や宇宙から見れば、自然循環の中の存在で、その率の中に収まっていれば良い存在で、増え過ぎたら減らされる。だから少数終息という事はあり得ない。数を少なくして終息するという事は次にはもっと大多数の抹殺に及ぶ。…どんなに豊かであっても、社会は必ず突然に断絶されられる。目に見えない生物こそ普段から虐げられているに違いないのだ。それが約百年周期のパンデミックの実態と言えよう。
 
死の多くは突然に訪れる。自然循環だからだ。いつか又は今すぐ死ぬ…死を忘れてノー天気に生きては高度高度とは言えまい。自分を見つめて覚悟して自分らしく生きて行く事を忘れてどうする。死にたくなくてもいつ死んでも良い覚悟と自分らしい生き方を普段から求められている丈だ。




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