(毎月発行の『連絡紙』より)

●令和3年1月号

ヒトという猿は30万年前に生まれたという。乾燥した気候になり樹木の数が減って…地上に降りたと言われている。その猿から現代人が出現したのはわずか2万年前だ。
  2万年前は寿命を平均50年とすれば400代先の事となる。400代先に現代の人類が出現したとして、それをはるか遠い時間と思うか、身近な時間と思うか…それぞれだ。思えば70歳直前の筆者からすれば、20歳代が50年前となり、残念なことにその20歳代の生活を語ったところで現代人には想像がつかないのかもしれない。筆者の20歳代のころは年長者の話はそこそこ想像できた。筆者が特殊なのではなく、時代の変化にも年齢があるという事だ。
  それほどに筆者の20歳代からの社会変化は大きかったように思う。地球は産業革命の起きた18世紀から飛躍的に1秒の持つ深さが違ってきて、50年前の1年間は現代の1ケ月にも値しないのかもしれない。
  昨年来世界中が悩まされている新型コロナウイルスの問題もそうであろう。対応策が確定するまでの時間は、例えば肺結核を克服できるようになった時間と比較すると、コロナの方が極めて断然と短い。コロナワクチンが1年しないうちに開発されようとしている…。そのおかげか新型コロナによる犠牲者は対策の大枠が定まるまで短時間となるだろうから、それに比例して犠牲者は少なくて済むだろうと考えられる。
  筆者は110年前のスペイン風邪と同等に考えて、新型コロナの犠牲者は4億人になるだろうと、思っていた。スペイン風邪流行時の地球の総人口数とこの風邪での死者の割合からして、4億人となっただけなのだが。
  それにしても知的な濃さの度合いと時間とは反比例するようだ。問題はその濃い内容をどこまで理解して行けるか、なのだ。
  例えばだが、今回の新型コロナで度々筆者が指摘してきたことは、感染防止対策が大事なのではなく、なぜ感染症対策を講じねばならないかという事の理解であった。それなのに国も世界的にも、ノウハウの提供は十分に行えているようだが、そのノウハウを実行する理由の提示がない。そこまで行けば自己責任ですよ、とばかりの態度であった。
  感染防止策について言えば、なんで経済との両立を図らねばならないのか、の説明がなされていなかった。それほど緊急性が求められた問題だったと言えるが、どうなのだろう…。多くの店や会社がつぶれて行くと、景気にも雇用にも差支えが大きく出るから…という理由になるらしい。確かに、コロナ感染で死亡した人より、コロナによる不景気で閉店や倒産や失業したりしての自殺者の方が多かった。だが、それも不思議な話だ。国から感染防止のための協力費をもらったが焼け石に水だから…で自殺に至ってはいなかっただろうか…。
  それでいて、飲食に関係しない業種は増収増益の会社も多かった。何が経済との両立か、と筆者は思っている。厳しい言い方になるが、要は社会貢献が十分になされている飲食店は生き残っているし、客からの思いを無視して金稼ぎをしていた店や会社はつぶれた、という事じゃないか。コロナに関係しての経済ではなく、普段の評価が下されただけだった、と思う。
  …肺病やみという言葉が筆者の子供のころにあった。肺結核のためにBCGが使われて患者が激減して、この病気の名前さえ知らない人もおられる。特効薬にはそれだけの効果がある。だが病気を抑え込むことができたから良い…ではないのだ。
  今回のコロナ禍と同じく結核は周りから忌避されていた。平安時代にすでに藤原摂関家が病んである。8世紀から20世紀に至るまで、結核も人々が怖がる病気の一つだった。その正体すらわからず家族は一緒に暮らしていた。その結果のBCGであった。その結果、結核に対する恐怖が薄れ、何の事かすらわからない人も大勢おられるようだ。…言えるのは肺結核との生活から何も学んでなかったのではないかという事だ。結核による死が身の回りにあったのに、それが過ぎれたら死を忘れてしまった…コロナでなくても、ヒトは必ず死ぬのに、だ。


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