(毎月発行の『連絡紙』より)

●令和3年2月号

ヒトは非日常の出来事で傷つき、それを不幸であると思い、でもその不幸をクリアしたときに何かしらを学び、学んだ結果で日常の成り立ちを少しずつ知り、知ったことで安心の方向を少しずつ確信し、安心を広げて生きて行く…。学ばないでクリアもできるが、その場合には日常の成り立ちへの思いに至らないから、安心して生きては行けない…。
  筆者の歳になると一生を振り返るだけの出来事を持ってしまうようだ。「ああ、あの時は華だった」と思える時が無かったように、筆者には思える。だが、しいて見つけようとすると、きわめて短時間でしかない。これと同じで当たり前のことだが、良い一日と言うものは一年に三日もあれば百点満点に余ると思っている。
  ではその良い日と何を意味するかと言うと、思い通りになる事とか心に強い共鳴を覚えたか…と多くはなさるようだ。それほどまで自分を中心に物事や出来事を考える習性が私達にはある。
 確かに生きているのは自分だから、自分の裁量が基本になって行動する…その行動で当たり前と言うかそれがヒトの常でもある。
  だが自分の裁量がどれほどアテになるのかと言うと実に曖昧に思えてくる。その曖昧な自分の裁量感覚を積極的に肯定できる理由はどうも見つけにくい。それなのに、自分の感覚のみで出来事と接して行く…。
  日常に違和感は存在させてはならない、という思いで私達は生きている。快さの有無は別にして違和のない生活は、心が波立たず、心静かに時間が過ぎて行く。それとは逆に非日常は違和感で出来ているから、その違和感で私達は日々心を波立たせ、健康を害するに及ぶ人もいる。
  学べる人は学んだ分だけ次に同じ違和と出会わない、出会ったとしても「そういうものだ」と心穏やかに処理ができる。
  学ばない人は、その場しのぎの行動を繰り返すから、何度も同じ違和と出くわし、心安らぐことが無い。それなのにそういう学ぼうとしない人ほど、自分勝手に満足を得ようと行動し、その嵐が過ぎ去れば目標が達成されたことにして疑問を感じない。達成をしてもいないのに終わった事を達成したことにできてしまう。それを傍から見た場合に、自分勝手、と理解されるのに、だ。
  どんな達人でも、初めから達成できるわけがない。初めからうまくやれたとしても、それは形がやれただけ、と達人は判っている。それなのに学ばない人はやってしまえばその上手さ下手さに関係なく終わった事と錯覚でき「やれて良かった」と満足で来てしまう。さらに困るのはその錯覚に気づかないことだ。
  そういう人だから折角の非日常を日常にしてしまう。楽しくないから行わない・楽しいからやる…の判断こそが間違いの素なのに…。今を自分の思うように過ごしてしまいたい…だから非日常の出来事を自分の主様な解釈で行ってしまえる。そして非日常の持つ学びを、自分の日常の出来事に変化させてしまえる。そういうトリックを自ら使って、苦しくない様に・学ばない様に自分を仕向ける。そのように、日常を形作り、その日常から出ようとしない…。
  違和感の無い日常には意味がない。非日常は辛いものに決まっている。辛い非日常をクリアに向けて堂々と行動すれば、結果とは関係せずに、心穏やかでいられる。
  出会った違和感に対しては丁寧に集中して向かって行けば宜しいのに、違和感に勝手な理由を付けて自分なりに全うして対応する。この理由付けは故意に違和感を消すものである。はっきり言えば、やった事にならなくする。それなのに達成した事にしてしまえる不思議がある。そういう人は終了を達成と錯覚している。行動終了から始まるはずの反省や分析を行わないで満足する。満足すれば違和感と出会えないのに、その不思議な達成に疑問を思わず、寧ろずっとそれを続けて行く…何事も楽しくやれる訳がないが慣れてしまうから辛くないのだ。結果が想定できない物事にこそ全力をつくすそれが違和感と出会い続ける方策なのだ。


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