(毎月発行の『連絡紙』より)

●令和3年5月号

色々な滝の打たれ方がある。多くは自己満足か願望実現の手段であって、それ以外は望まない。多分だが唯一我々の「健魂」だけが自己啓発として打たれているようだ。 
「健魂」という滝打たれの団体は自己啓発に始まりそれで終わる。自己啓発自体が究極の学びで信仰だし、学んだ結果で安心して自分を生き切れる…それを人生と考えるからだ。 だが、健魂では滝打たれが終わる度にレポートを書く。嘘を書くことも自由だし、本来は自分でチェックすべきを書くことなのに、それをルールと定めている。だから、実は情けない現実の姿でもある。
  書くというより、強制させられるという事だ。何事もそうだが、滝打たれなども指導を受けていては意味がない。どう打たれようと何を目的にしようと、本来は自分個人の考え方にもとづくものだ。元々がすべての物事は自己責任に帰するものだ。
  滝打たれが気合入れや自分の原点確認とするのは良かろうとして、願望実現の為の超能力開発手段と思い込んでいる人も多い。これは悲しい現実である。自己変革なのにそれを経ずして結果や数字に結びつけようとする…。それはできない事ではないが所詮はヒトという猿のなす浅ましい事だ。万能な超能力など存在しない。しても意味がない事に気づかねばならない。第一その能力をどう使うかの価値基準が生まれない。
  その価値基準は自己啓発を続けて行ってつづけた挙句に漸く見えてくるものだ。だが結果や数字を目指す人の見える結論は超能力を利用する生き方のセコさでしかない。能力を金もうけの手段にしては安心と出会える訳がない。安心とはどんな荒れた環境であっても成れる境地で、満ち足りて生ずる心の状態ではない。
  それはさて、レポート書きである。本来は自由に書いて、そこから自分のテーマや課題に気づくものだ。感覚の微妙な差に気づかねば自分にとってのテーマ・本論に至る事はできない。少なくとも滝打たれに関して数字を挙げて表現するのでは意味だがない。感覚の微妙な差は何よりも感覚でしか分りえない。その微妙な差に気づくまででも容易でない。さらにその微妙な違いを自分の言葉で表わせるようになって漸くテーマ・本論と戦いの始まりとなる。
  アスリートにとっては感覚の違いこそが一番の宝物で、偶然に出くわす。その「これだ!」という感覚をとにかく追い続ける。何度も何度もその感覚と出会って、いつでもその理想の感覚に至れる工夫をしてゆく…だから一流のアスリートは偶然の感覚を深く意識しようとする。偶然の感覚を言葉にし、それをもっと別な言葉に表して行く…それをイチローや高木美帆や小平奈緒はやっている。感覚の違いはアスリートだけでなく学者の殆どもこれを大事にして仮説を樹てて、比較して真実に近づいて行く。だから普段から違いを感性で探れていないと、レポートは書けない。書かなくても良いが、書かないと恐らくテーマと出会えない。
  自分をテーマにレポートを書こうとするなら、周りとの相違点を探し、それを吟味して行けば良い。周りと違うから弱点とするのは間違いで、求める到達点は自分らしくある事なのだ。それなのに、多くは相違点を弱点と考える。それだけ普段の自分に無関心だから相違点が見つけにくい。そして相違点をやっと見出したのにそれを弱点にし、それで終わりにする。弱点を上げる事ができても、その対策を考えなければ意味がないのに、だ。克服方法を周りや先輩に求めても無駄だ。その膨大な無駄と向き合えるのは唯一自分だからだ。
  色々なセミナーとか研修は個人を無視して行われる。だからそのテーマを自分の物にするだけで容易でない。ここに狂いが生まれる。テーマをむりやり自分につなげようとするからだ。研修で学ぶのはテーマに対する真剣度を身につける事なのだ。だから「修行は一人でも成立するが自己啓発にならない」のだ。自分の不似合いなことを渋々やるか集中してやるか、の差だ。物事の処し方を見習う事こそが研修であって研修の価値はテーマにあるのではない。


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