(毎月発行の『連絡紙』より)

●令和3年8月号

ヒトは何事もためらわずにやれば済む。やったことがないものをやろうとする時は大きなプレッシャーがかかる。そしてやってみれば、そのプレッシャーが何だったのかと思うほど、容易い事が多くある。
  プレッシャーが大きいのは、学びに通じるからだ。プレッシャーが強いほど身にしみこむ…身にしみこむから身につく。身につくとは理解したという事と同義だ。ヒトはやった事からしか学べない…その所以だ。
  約束事では体験時の痛みが生まれない。当然に予想する痛みを活かして行けない。痛みのない空想は学びには不要で、むしろ学びの邪魔になる。そういう痛みのない空想を活かしたところで将来につながらない。
  それなのに私達は往々にして、やってもみないくせにイヤだという。そういう不思議な事をやっているのに、そういう自分に気づかず疑問を感じないでいる人も多い。
 
私達には訳の分からぬ先入観を持っていて、その先入観にとらわれて行動しないで済ましてしまう。結果として自分の成長を中座させてしまう。厳密に言えば、中座ではなく自滅させる。それなのに自滅させて、「よかった」とか「幸せ」と思い込んでしまう。それほど自分の先入観を疑う事がないと言えるのである。何事もやってみなければ判らない。イヤイヤやったところで半端な痛みだから判るまで至れない。集中してやってみないと判らない。
  自分にとっての真実は感覚であって理屈ではない。野球の名選手は「野球は感覚が大事」と一様に仰るが、感覚が大事なのは野球というスポーツばかりではない。スポーツだけでもなく既述のように「何事も」生きる物の全てに言える事なのだ。感覚の微妙な違いが積み重ねられて行って、やがていつかその違いが理屈を形作る。自分にとっての真実が生まれ、科学の世界では画期的な発見発明に及ぶようになる。
  それなのに、私達は理屈を見つけて体験を中座する。できる人とできない人の差は単にそれだけである。やってきたことからは説明を生むことができるだけだ。が、やってない事にこそ真実が埋まっているのだ。
  体験の中座に対して、やらない理由を無理やり見出してもっともらしく装ってしまうが、それが独りよがりのわがまま・自己都合の正体である。だから、周りでは体験を避ける為の理由をわがままとしてとしか認めない。一回躱すたびにその人個人の信用がなくなって行く。何よりも、躱した人は次の新しい体験の時に、行動する勇気が減ってしまっている。一度逃げたら二倍、二度逃げたら四倍難儀しなければならなくなっている。三度逃げたら三乗の九倍の難儀…それはできっこないな。つまり三度逃げたら、ヒトは普段に戻れないと言える。その時の嫌な思いを避ける為にやりたくない理由を列挙するが、そんな自己都合の理由を考えるなら行動する理由を考えるべきだ。更には行動する理由を考えるなら、今やる事に集中すべきだ。
  要するに考えずに巡り来た物事は全力でぶつかって行く…、そういう癖をつけるだけなのだ。癖をつけた人は行動して行く中で初めて感覚の違いに気づく。考えず全力で、といったところですぐに感覚の違いに出くわせるのではない。数多くの繰り返しが求められるし、その為には全力と集中の癖が必要になるのだ。そうやって行動してみて初めて何故嫌と思ったのか、その先入観の背景が判る。何よりもそうなってこそその学びの根源問題に出会う。
  誰にも言える事だが、やってない物事にしか自分の可能性はない。やってきたことを何万回繰り返しても、現状維持を超えられない。真似はどんなにやっても真似にしかならない。嫌だからこそ、学びの対象なのだ。
 正面切って全力で玉砕すれば知に至り学びとなれる…それは普通に生きる普段の日常の基本形でもある。やる前に自分の都合の判断を持ってやらないで済ます。それを傲慢だと思わず、良かった・幸せだと思う。そういう自分を守ろうとする限り進化しない。経験しない判断を優先していては生きていることにならない


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