(毎月発行の『連絡紙』より)

●令和3年9月号

生きる事に秘訣は無い。只単に生きて生き切れば済むのだ。ただそれだけのことに成功・不成功が混じると私たちは混乱してくるようだ。
  成功するために滝に打たれに来る人がたまにおられる。滝に打たれることは自分が変わってしまう事で、それで結果が違ってくることは判る。その結果が自分の想像していなかったことになることまでは判る。だが滝打たれをなぜ成功へつなげるのか筆者にはいまだに不明である。
  人は成功には秘訣があると思っていることが多いようだ。だが物事に秘訣があるというのは錯覚だ。それなのに錯覚している人は秘訣記事を読んで判ったつもりでいるようだ。 そんなことで良いのかなあ…。秘訣などないのに、読んで判ったと思える不思議があって、その不思議に気づかない。さらにはその秘訣なるものを集中して実践しようとしない。実践すればそれが秘訣でないことに気づくのに、いつまでも行動しないで、分かった気持ちだけで満足できてしまう…。今を行動しないで、いつか行動しようと思える自分の甘さに気づかないでいる。
 今を行動していないで知識を蓄えている、蓄えられたと思う…。人の知識は経験の産物であって、経験を経て知識を実感して行くものだ。それなのに書物とか先例から学んだことにしてしまう不思議…。それが無意味であるのに行動しようとしない。行動しない方が楽だからだ。
  往々に見かけるのは成功したと思っている人の発想の固さだ。一度成功した人は自分の成功の経験を金科玉条のごとく正しい事だと思い続け実践を続ける。あの時の成功手法が永遠に正しい事にはならないのに、正しいと思えるのは不思議な事だ。
  織田信長が桶狭間で今川義元を破ったのは奇襲によってだった。敵の総大将だけを狙えば勝てるという奇襲だった。その奇襲を信長はその後に誰に対しても行っていない。そこが信長の偉いところである。
  以後、信長は自軍が圧倒的な武力差になるまで戦争をしないで行く。いわゆる外交を以て圧倒的な武力差になるまで戦争に臨まない。常にオーソドックスな手段を以て戦争をしてきたと言える。そのオーソドックスな努力を学びとしないで、奇襲の華々しい奇跡から学ぼうとする…それは奇跡であって勝利の秘訣ではないことに気づかねばならない。その反面で、信長は奇襲作戦をあの時だけの限定にした事が偉さと言える。
  ヒトの成功例から秘訣を見出して学ぼうとする事は間違いであるのは至極当然なことだが、結果を得るという事は、その正解を得た者に催眠をかけてしまうという側面を持つ。
  良い結果を得た時ほど、分析は厳密に行わねばならない。そうしないと「あの時の努力をすれば通じる」という暗示を自分にかけてしまう事になるからだ。当然に、あの時の努力を正直に実行したのに、同じ成果を得られずに終わってしまう。
  私達の多くは柳の下にドジョウが2匹いると思って、成功行動の真似をしまいがちだ。成功したと思う本人でさえ柳の下のドジョウを思ってしまう事が多い。一度の成功例を教訓にそのまま実行するなら、失敗に及ぶのに繰り返してしまう。それだけ成功例は成功者の中に刷り込まれてしまいがちなのだ。
  成功が一回限り、つまり通過点である事を失念してしまい、その成功事例が何事にも通じると思い込んでしまうのである。成功の秘訣が何であったか、分析をすれば判るように思いがちだが、冷静な分析は成功の当事者でもなかなかできないものであるのだ。
  成功はそういう麻薬を持っていて、成功を自覚した人はその麻薬から覚醒できなくなりがちである。柳の下にドジョウが2匹なぞいるものか…。ドジョウを探すより学ぶ態度をこそ探さねばならない…。
  学ぶ事は難しいがそれ以上に苦しい。結果が良く出た事でも分析をしにくいのだから、日々の学びが通過点であるということを覚悟していないと自らの暗示に自らが罹ってしまう。オーソドックス言うと、に学ぶとはそういう事でしかない。


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