(毎月発行の『連絡紙』より)

●令和4年10月号

出雲山中の、世界唯一のタタラ製鉄所で玉鋼を細々と製鉄している…鎌倉末期以降の経験と勘による製鉄だ。だからそれだけファジーな世界で、そのファジーを通過しないと玉鋼は生まれ出ない。ファジーと闘うのは、経験と勘と個人の体質なのだと思う。これはタタラ吹きだけでなくすべてに言えることだ。
  どれほど鋭い勘と言っても、経験と勘は本来一つである。如何に多くの経験をしたかでなく、熟(こな)してきたかの結果なのだ。言葉にならない勘の世界はそれぞれ違うがそれでよい。その概感が似ていれば良いのだ。
  勘は多くの経験に基づく。経験が少なくて勘が的を得ることはない。多くの出来事を集中して丁寧にやって、且つ、しっかりと受け止めて来たかどうかの問題なのだ。経験の都度、その経験に結論を付ける必要はない。現実は一回一回結論できるものではないからだ。ただ、違和感の違いを確認しておくだけのことだ。
  違和感の違いの確認が出来れば宜しいのだ。恐らく、職人世界に生きている人は出来る。だから職人は理屈ではなく感覚や閃きを大事にして来た。弟子の免許皆伝とはそういう事だった。マスターしたからでなく、師匠の生き方の目線の継承を意味した筈だ。師匠と同じ事をやって同じ目線を得て、それでこそ弟子だったのだ。
  多くの経験とは言うが違和感を見出せねば、ここで言う経験とは言えない。ここで言う経験の為には集中する事と丁寧さが必須である。行動に集中と丁寧があってこそ、違和に気づかせてくれる…。我流では意味がない。
  だから同じことを繰り返して違和と出会える。それが弟子の修業というものだ。要するに繰り返し方にこそ問題がある。違和を見出せないならば、同じことをやった事にはならない。言われたことをやったのだから、同じことをやった事になるが、同じ事を終えた時に、振り返って違和と出会ってなければ意味がない。経験とはそういう物で、何も意味を持たない行動も存在しているのだ。
  終われば良いとか、反省の生まれて来ない行動では意味がない。一番肝心な事をスルーしてしまうのだから、行動と言ってみようがないのだ。
  だが多くは行動を終えて、終わったとなる。終わったのではないし、やったもやらないも無いのだ。ただ自分で終わった事にするだけで、嫌な事が終わったと言う満足しかない。だから終わっての反省に、良かったと言う意見を作り出す。何も判っていないのに周り受けする感想を述べることが出来る。子供の嘘と同じ次元の感想となるのだ。マイナス進歩の証明と言える。
  丁寧に集中していれば必ず、いつか違和と出会う。予断を持っての行動は集中していない証拠だ。終わって満足するのだから、そこに反省の生まれる訳がない。
  タタラ吹きというファジーな事に挑んでいれば必ず違和と出会う…。だって相手はファジーなのだもの。その違和に対する推理はその人のそれまでの生き方の総決算による。生き方とはどこまで集中し丁寧にやってきて、その都度、振り返って来たか…を意味する。その生き方が推理の正確さや勘に及ぶ。そういう日常に生きて来たかどうかが、決め手になるだけだ。
  タタラ吹きで成功する為だけに、そういう日常が必要なのではない。タタラ吹きだけでなく、何事もそうなのだ。どんなに科学が進もうと、個人はファジーな現実の中で生きている…、法律や科学や体験を伴わない哲学が心の救済などする訳がないのだ。
  私事だが、滝打たれギネスと周りで言うとして、日々は違和の連続だ。未だに違和が色々と続いている…振り返れば、違和の色や深さが大きく違っている…様だ。日々、自分を大切に生きようとしてきたが、肝心の自分が不明なままだ。だが違和に出会おうとする経験だけは続けて来たと思う。滝打たれをやり続けられたのには体質があったのかもしれない。タタラ吹きには千三百度という高温に負けない体質が求められる様に、滝打たれに関して適応できた体質があるのかもしれない。日々の実践が、その人の推理の発展と勘の良さを生み出すようだ。初めからそういう資質を持っている人は…いない様でもある


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