(毎月発行の『連絡紙』より)

●令和4年4月号

滝場にはいろいろな人が集う。修行の場だからそれは当然だが、修行をして「良い人」になろうとする人が多い事に毎回驚いている。どう考えるとそうなるのか不明である…。恐らくだが、自分らしい自分というものを良い人という風に思い込んでおられるのだろうし、集団の役割分担が見えていないのだろう。周りの為に、或いは団体の為に自己犠牲を払う良い人は実は大半がその様だ。良い人とは「どうでも良い人」しか意味しないのに、だ。
  これはどんな事にも言えるが、指示待ちでは何もできない。自己犠牲で物事の行動終了が出来る人は、実質の終了にまでに至っていない。だから自己犠牲にすらなっていない。しかし、そういう人は多大な自己犠牲を払っている、と自負している。
  それはその人個人の思い込みだけでしかない。妥当な努力をし続ければヒトはそれなりに結果が出せる存在なのに、どんなに頑張っても頑張ったという域にすら達せないでしまう人は「それなり」というものの在り様が見えていないし、形だけの理解しかできていない。自分の持っている考えや拘りに気づかないと、周りとの違和に気づけないし、気づいても周りが間違っていると思ってしまう。そして折角の自分の違いに気づく機会を棒に振る。
  ではなぜ、ヒトは自分と周りの違和に気づこうとしないのか・自分の違和を見直そうとしないのか…である。それが形だけの行動しかできない理由の根源でもある。それは結局、一と時でも心安らぐ世界を持っているからだ。
  ヒトは経験の産物で生きているからだ。その経験とは痛みしか意味しない。痛みについて、軽ければ違和という場合もある。が、いずれにしても居心地の悪さを自覚すればこそ、そのヒトは進化するのである。ヒトは心に限らず体全体に存在する痛みを感じる点に違和を感じ続けないと問題の根本を見つめられない…ものなのである。
  問題の根本が見れないから形だけの行動となる。その時に無難で終われば良し…では生きている事にならない。進化し学ぼうとする人は難癖をつける様にして行動中の違和を記憶し、行動が終わってその難癖の是非を問う事を続けている。だが多くの人は、痛みや違和を忘れられる場所を見出そうとする。家庭や趣味がそうだ。
  帰れば安らぐ家庭がある…連れ合いも子供も自分にとっての安らげる対象であって、社会でどれほど難儀をしても家庭に帰れば一切を長帳消しにしてくれて尚明日への活力が湧いて来る…そんな家庭は偽物だ。家庭だって多数が共に生きている場所だもの、自分のペースが通る訳がない。現実が違和だらけなのに安らげる場所にしてしまう…不思議の前に無理がある。
  家庭と同様に、好きな事がやれる趣味というような世界を持っているとしても、それを広げ高めようとするには緊張が必要だ。広げ高めようとしなければ好きな物事にならないのだ。好き、という事はその物事について回っている緊張感と対応し続けるという事であって、緊張感があるから難儀でも取り組めるのだ。 
 その対象だけが好きというのは、ただ興味がある・興味が向いているだけで終わってしまう。趣味が趣味であるには、それが持つ難儀さとか煩わしさを克服して「普段」にしてしまうからで、その難儀さ・煩わしさに留まるにしても、克服しているから楽しい難儀・楽しい煩わしさにしてしまう。つまり難儀も煩わしさも自分個人の問題なのである。自分の家庭、連れ合い、子供、人間関係…趣味、研究、仕事…すべて難儀な学びであって、だから趣味が成り立つ。だがその難儀を不要な事と思ってしまう人が多い様だ。
  難儀を常として受け入れていった暁に「身について」しまった、が正しい。だが難儀しない為に趣味や家庭や研究を逃げ場としてしまい、その世界の苦痛を排除してしまう。虚無化かマニアックを生きる視線にしてしまうと学べる訳がないようにヒトは出来ている。 知は痛みなのに、それを避けるから学びが身につかず、知は痛みを実践するかしないかは自分の問題なのだ。難儀を日常のさりげない事にしてしまわないと自分を好きになれない。自分を好きになれば、色々な難儀も日常ごととして受け入れられるのに…。


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