(毎月発行の『連絡紙』より)

●令和5年10月号

楽しさが多く集まる程、大きな幸せになると思い違いをしている人は多い。その様に思えるとして、幸せになる事が人生と言えるものではない。幸や不幸はそこに留まってはならない通過点でしかないから人生の景色なのだが、幸せという景色がヒトには皆少なく出来ていると共通して言える。
  全力で懸命に生きることをひたすら心掛けて来たつもりの筆者だが、振り返ると、ヒト皆そうであるように、楽しかった量が極端に少なかったと思える。不本意な人生だった、と思う人は多く居られるはずで、だからヒト猿はこれまで生き延び進化して来られたのだ。
  そういうヒト猿の歴史を側面から見ると、進化とは楽な事を定着させることの積み重ねであったとも言える。その結果、生産流通迄、軽便になって、衣食住に始まって多くの物事が金で売買されて満たされるようになっている。その結果「今の若い者は…」という批判する言葉が流れる様になった。もっとも、「今の若い者…」は古代エジプト文明化で既に発せられている言葉であるが…。
  その繰り返しで迎えた現代…労働時間・ハラスメントなどなど社会環境を整える法が出来てきている。その意味で社会は平等さが増し、苦しい事が排除され、より楽しく明白な状況下で働けるようになったことになる。
  だがそうだろうか、社会政策が完備すると嫌な事が減って行くと考えがちだが…それはあり得ない事ではないか。確かに平等さが広がり今までの難儀さが減って来てはいる。がその反面、新しい法律と周りへの甘えで、周りへ迷惑をかける分量が増えている事の方が目立ってきてはいまいか。
  新しく出来た法の趣旨が徹底されるに時間がかかるのは当たり前だが、それ以上に、「労働」の意味が不明瞭になって行く事に気づかねばならず、労働の意味が不明だと、働く際に甘さが横溢してしまう。その結果、働く人の権利が拡大解釈されて、生産以外に意味のない労働になって行く事は想像に難しくない…。
  労働賃金が労働時間の代償なのか、労働へ難儀した事の代償なのか…それ自体が既に曖昧になって来ている様だ。楽して賃金を貰えると錯覚する人が断然と多くなってきてはいまいか…。人それぞれだが自分の価値を労働賃金という数字に置き換えられる不思議に気づかない人は多い。が労働の価値はそんなところにあるのではない。
  それなのに、時間内の労働でもやっという働き方になり、以前なら時間外にもならなかった労働に時間外の賃金がつくようになってしまう…現にそういう目的不明・濃さの少ない労働が生まれ出していて、労働に関わる人たちの今という時間に対する濃さが失われ出している…。
  働く時間の濃さが均一という事はあり得ず、個人それぞれの課題の問題だ。その個人を抜きにして、優しく働こう…と訴える時代になったとしたら、個人が仕事を通して学ぶ事が激減して行く。労働とか生活とかは、本来は自分が自分を圧迫するように出来ているもので、それは学ぶという事と寸分変わらず、だから学びも労働も楽に成せるものではないのだ。自分への圧迫を法律が弱めてくれるとしても、それを受け入れるかどうかは個人の生きる目線即ち学ぶ目線とイコールなのだ。
  どんな法律が出来て生きるに楽になったとして、その法律が対象とする人々の生き方を楽にするかどうかは、関係しないと気づかねばならない。何事も圧迫を弱める事は、原因を誤魔化せば出来るが、その分、人は自分個人が見えなくなる。圧迫され、思う様にできないからこそ、どうしたら良いかが判る。労働も学びもそういう事だ。苦しめられた分だけ、深く学んで行く…新しい法律がそこを計画に定める事が出来たとして、解釈する人々の生き方に甘えがあるなら意味がなくなる。
  多少の事に負けない逞しい自分になってこそ健全な人生だし、嫌な事と向き合わせられるから、個人は変われる…どんなに良い法律でも、それがルールになると甘えが生じて、人生の実質を失念し、法律を悪利用してしまう。皆平等に楽をして進もう…では学びも逞しさも無くなる。


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