(毎月発行の『連絡紙』より)

●令和5年6月号

白玉の滝打たれの参加者募集が始まる度に筆者が思う事に「滝に打たれたい」から打たれてそれで『満足してしまえる』という現実がある。
  筆者にすれば滝打たれは毎回毎回「命懸け」だと思っているが、初参加の人の多くはそうではないようだ。「打たれて良かった」と仰って終われる満足獲得派の方が圧倒的に多い事と、そういう満足を得て終わる事に何の疑問に思わない事が不思議でならない。人生を満足を得て終わって良しとする事が筆者には理解できない。
  新しい事は、何事も経験しなければ判らない。その新しい事にこそ、自分にとって必要な真実の原型がある。新しい事は何も滝打たれに限らない。ヒトはマを良く生きては学べない存在だから、新しい事には必ず嫌な事が大いに含まれている。と言うより、通り過ぎて来た新しい事には必ず嫌な事があって、その嫌な事が本来、自分がクリアすべき生きる事の真実である。慣れた事や特異な事はいくらやっても、生きる真実に至りえないのだ。 「良かった・満足した」の人には何が良かったのかを掘り起こしてほしいのだが、満足を得てスルーしてしまう。「もうあんな難儀はしない…」で済ませてしまえる。何で「やってみよう」と思ったかこそが大事な事で、それが自分個人の生きて行く基本なのにだ。 その生きる基本への思いは個人の成長に合わせて薄れて行く…それがヒトであるが、生きる基本を離れたら個人は生きた事にならない。周りと同じ生き方をして得られるのはどうでも良い満足だけでしかなく、個人の真実には至らない様にできている。
 
何事もそうだが、掘り起こしの習慣を私たちは忘れていまいか?。命を張って滝に打たれたのに満足で終われる程、自分の命はそんなに価値が無い…とは思っていない。だが満足してしまえばそこで掘り起こしは停止…どころか掘り起こしの習慣そのものを失念させてしまう。
 失念した人が口にするキーワードは「良かった」「好きだから」であるようだ。だがこれは、理解努力が薄い人の使う言葉だと筆者は思っている。理解できないもの事は「好き・嫌い」で判断するしかなくなって行く。
 掘り起こしをし続けていれば、判らないなりに判ろうとする方向は意識できる。だが、掘り起こしの習慣が無い人は、評価する時に好き嫌い・良しあしで判断せざるを得ない。好き嫌いでも世渡りをして来られたのだし。
  では掘り起こしとは、何か…。それは違和感を探すことだ。自分の行動は殆どが正常で違和が無い…と自分では思っている。だが、周りの人から見れば、或る種異常な事・異常な思いをしている場合が多くあって、それに気づくことが即ち違和に気づく事である。この違和を見逃さないためには、掘り起こしの作業が大事となる。
  滝打たれに限らずだが、終わってから違和を探し、その違和の意味を自力で考える…だから目標が見えて来るのだし、それが自分の生きる真実に繋がるのだ。この生きる真実と出会わなくして安心して生きる事は出来ない。安心は自らの命のテーマを自覚せねば生まれて来ないものでもある。
  好き嫌いや良しあしで物事を判断して、自らを深く考察しない事は誰でもしがちだが、それは個人を生きる事には絶対につながらない…。
  厳しい言い方だが、世の中の90%以上の方々はそうである、と勝手に感じる。そういう人は実感を素通りできるから、空虚な架空の世界を生きるだけだ。
  打たれて良かった…ならば、わざわざ我々の団体に臨時参加しなくても良いはずだ。いくら体験者を募集していると言っても、満足しては一回の体験からは何も導き出せない…。
  自分で打たれて自分でコケたらどうなのだろう…それなのに他人に導いてもらって、満足を得ようとする。その様にして満足が得られるとの錯覚を続けていられる…子供でも分かる道理を大人が不明なのである。それをして「大人」では悲しい。だが悲しいがそういう大人が多い、多すぎる。
  そうやって満足万能派は社会を闊歩して行く…あり得ないがそれが我が国の現実のようだ。日本の国の民度の低さは満足への曖昧さに基づいている様だ。


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