(毎月発行の『連絡紙』より)

●令和5年7月号

7月になった。登山講を主宰している関係上、御嶽登拝が近づくと色々と思う。一般的な登山とは大きく異なるのが登拝だ、とつくづくと思う。
  山頂に行く事や、予定ルートを消化する、それを命懸けで行う登山は大変な事だ。対して、結果に一切の価値を認めず今を確かに確実に行い切る事を確認するのが登拝だ。一切の価値観を認めず今を確かに全力で生き切る事…それが生きる事の実相だと筆者は信じている。その様に信じ込ませられたのが御嶽登拝であった。
  登山に限らずだが、達成するしないは自分の思い・拘りであって、その思いが満たされることには意味がない、いや、ない事にして御嶽に臨む…。そうして1泊2日を過ごすと普段の自分がどれほどシンプルにそしてピュアに生きていないかが見えて来る。そして、今を生き切れていない自分なのに、将来に備えている自分がいると気づかされる。
  将来への思いが達成でき、夢が実現できたとし、それを社会で成功と評されたとしても、今を生き切っていないとその夢をしっかり味わえない。学びがないと味わい方も不明となる。学びの根源はシンプル・ピュアの世界と 同義であり、生きる根源である。生きる事は学ぶ事で、成功も失敗もどうでも良く、本意でも不本意でも、今をシンプル・ピュアに生き切る事…それだけでしかない。
  シンプル・ピュアで今を生き切る事に一年に一度立ち戻る…それが御嶽登拝である。シンプルとピュアが生きる根源である事を再確認させられる事が六根清浄であって、それが結果を出す事より遥かに価値ある事だと確信出来る。確信できなくとも、自分が清まって行くと実感できる…そうなればその登拝は大成功と言える。
  シンプル・ピュアを生きている時間中に何回確認できるか…日々そうであらねばならないのだが私達は中々できない。どうせ下界に戻れば一日ごとにシンプル・ピュアが汚れて行く。下界は夢の達成が人生だと思い込んでいる人ばかりだからだ。
  だからこそ年に一度・二度と御嶽の登拝に足を運ぶ。御嶽でなくても良いはずだし本来は日々の日常を修行に変えればそれで済むはずなのだ。
  御嶽は行くだけでシンプル・ピュアを登拝される個人に強いて来る。ヒトは授かった個性を汚し潰して生きて行く。夢の実現を学びの根源のシンプル・ピュアで行わないとそうなる。そして自分でないヒトで人生を生きてしまう。自業自得とはそういうことだ。   色々な事を自己都合で処理し、人生を複雑怪奇にしてゆく。感性で生きる唯一大事な事を失念させてしまえば頭人間にしかならない。シンプル・ピュアに立ち戻れば、少しは清まり自分に戻る。自分の根源が社会性によって壊されるのを少しは修復できる。
  社会で壊された自分を、成功によって変われた自分と考えてはならない。結果が全ての生き方は、人生が始めから既に終わっている…社会で成功した人ほどシンプル・ピュアを無くしている。夢の実現が単純に通過点でしかなく、学びと生きる事の根源である事を判ろうとしないのは辛い事だ。
  六根清浄と怒鳴り続け、体がきつくなり、でも逃げも隠れもできなくなって初めて自分の根源に至った事になる。山登りを登拝という修行に変える事に目標があっては意味がないのだ。今やることだけを全力でやり切る…或いは全力がどういう事なのかを実感させられる。御嶽という山で、自分が蟻の如く小さな存在になって、なおかつ自己都合を捨てさせられて、登山が漸く修行になる。そして少しでもシンプル・ピュアが再生出来たら修行の成果があった事になる。下界で何を大事にしてゆくか…少しは見えて来る。成功の為ではなくシンプル・ピュアに生きる為の糸口が見える
  その糸口を一年間貫くか明日忘れてしまうか…それこそが日々の修行で日々の修行の濃さは自己責任だ。 
 多くは惰性に流され自分のシンプル・ピュアを見失う。シンプル・ピュアに今を生き切る事を覗けるだけだが、有意義な分だけ厳しい。人は社会的に除外されても、生きる目線は否定されない。否定されてみようがない。そういう誇りが生まれる。シンプル・ピュアの境地確認が登拝である。


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