(毎月発行の『連絡紙』より)

●令和5年8月号

社会制度が整うと人は虚弱になって行く様だ。働きが悪くなり、働く意義さえ不明になって行く人が多くなっている様に思う。制度が整う事と働く意欲とは本来違う物だと思うのだが…自ら過保護を選ぶ様になる。
  賃金は働く人のその苦痛に見合ったはずのものだが、その賃金を一度多く貰うと、その賃金に見合った労働をしていないのに、多い賃金を貰う事が当たり前になってしまうようだ。働かねば賃金を貰えないのに、賃金をもらう為だけに働くようになる…。そうなると、どこか変に見えて来る。労働の持つ素晴らしさが見失われてしまうからだろう。
  労働の持つすばらしさとは何なのか…と言うと、労働が社会に喜ばれるから賃金が貰える、という側面があると思う。賃金を貰わねば明日の社会に対する貢献が出来なくなる…どんな仕事であれ社会貢献するという意義があって労働は大切にされるのに、賃金を貰うだけになると労働の尊さがなくなってしまう。自分が難儀をするのは食って行く為に賃金が必要なのだとなってしまうと、周りに喜ばれてこそ労働…と言えなくなり労働の意義を持たなくなってしまう…醒めて考えてみれば社会に意味のない労働が喜ばれるわけが無く、当然に収入を産むわけが無いのに、だ。
  実業とはそういう事で、現代社会を俯瞰した場合に、詐欺ではないが実業でもないという虚業の事業所も結構存在していて気になって来る。金を稼ぎさえすれば仕事という思いがそういう虚業の会社を成立させている。賃金を貰うから仕事…と錯覚するのと同義である。労働の大事で高貴な目的である「社会貢献」を失念してしまえば、どんなに利益を上げようが、利益の額で長者番付に名を連ねようが、実は虚業でしかなくなる。
  新型コロナで判った事は、国は個人に味方せず、かといって特定の企業にも味方せず、業種には見方をするという事だった。具体的には旅館ホテルへの援助がごまかしの如く行われた。
  宿泊者への補助金のつもりが、宿泊業に届いてしまう…補助をする国もそこは判っているけど、指導矯正はしなかった。宿泊者一人に付き五千円の補助金が出るのに、宿泊施設側は同じ部屋なのに四千円を値上げして、客には千円が割り引かれた。旅館はどこかを修繕したとか増築したとかしなくても、名目が何であれ四千円を値上げ出来た。極言すれば、国が現金をばらまくと格好がつかないから…でしかなかった。
  国からそういうお情けの補助を貰って、客の手前悪いと思わずに済む宿泊業が殆どだった。金がなければ会社がつぶれてしまうとして、でも旅行者の手を経ても同じ金額は同じ地域に落ちただろうに…。金だけが動けば良い…これは旅行業だけでなく、コロナで支援をしてもらった会社の常であった様だし、それで国民を助けたという思いが政府にあった事になる。
  金が動けば社会貢献などしなくても仕事…それで助かった会社も多くあっただろうし、逆にコロナ惨禍で大きく黒字を出せた会社もあった。でも社会貢献が出来たのか…コロナであぶく銭を手にしただけじゃないか…。
  同じように制度が仕事やそこで働く職員を救ってくれたとして、それで良し…では無いと思う。或いはコロナと無関係で制度で決まった労働時間を省力活動して、或いはその時間中、同僚の真似をして、それで仕事と思えた人は多く居られるのではなかったか…。制度で定まった時間を会社に拘束される事が仕事の意味となり、その報酬を手に入れる。色々な理由をつけて特に難儀な労働を避けても、賃金は貰える…。金を貰えば立派な労働だ…なのだろうか。
  家に帰れば子供がいるから所定の時間を働いたら即刻帰宅する…それで法的には何の矛盾もない。だが自宅と会社とのそれぞれに課せられた使命のせめぎ合いを無視している事に気づいているのだろうか。このせめぎ合いは心身に負担を強いる…その中で苦しんでこそ、痛みが生み出される。痛みを無視せず、向かって行かざるを得なくなって初めて仕事になる。仕事と家庭と格闘して学びが生まれ、その人は逞しくなって行くのに…自分だけ制度に守られ楽してどうする…。


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