(毎月発行の『連絡紙』より)

●令和5年9月号

卓球女子の石川佳純さんが引退意をされた。本年5月の事だった。ご本人と接した事はないので、以下は筆者の見ただけの感覚で言うのだが、同じく卓球女子の福原愛さんと比較すると、石川さんの人間性の奥行が広いと思ってしまう。福原さんの卓球は見ていてつまらない…見ている人に感銘が行かないように思えている。
  福原さんを悪くいうのではないが、よくわからないお方に思えている。天才卓球少女のままの成長だったように思う。重複するが筆者の場合、福原さんの卓球を見ていても毎回心が動くことは少ないように思っている。
  石川さんは引退で「追い抜く時はすごく楽しいけど、追い抜かれる時は苦しいものもあって大変な時間もあったけれど、頑張ることを止めずに東京五輪の出場権が得られました。その5年間が選手としても人としても成長させていただいた、貴重な時間だったと思います」と仰っておられた。
  そうなのだ、石川さんと福原さんの違いは、追い抜かれた時の辛さと向き合ったかどうかにあると思う。追い抜かれて悔しいのは誰でも思う事だろうが、その悔しさと向き合ってきたのが石川さんではなかっただろうか。
  力が足りなければ追い抜かれて当たり前、と思っていても、悔しいとか切ないとか思わないはずはない。これで当たり前…という思いからどんな努力をするか、という事に迷いがなかったという事なのだろう。それだから追い抜かれて切ないという顔をする必要がなかったのではないか。
  追い抜かれる苦しさ切なさを余り感じさせなかったのは、それらを表してはならないと思ったのではなく、それが当然なことだと思えたからだ。その様に導いたコーチが偉かったのは当たり前だが、石川本人がその様に思えたことが第一なのだ。
  ではなぜ、その様に納得できたのだろう…。私達の多くは自分の弱点に対してそれを認めようと思わない。結果が出ないのは自分の努力の不足ではなく、自分以外の事のせいにする。そして結局学ぶ事をせず、妥当な努力もせず、それを自ら通り過ごしてしまう…それが楽だからだ。
  頑張るという言葉は楽がないという意味である。どれほど楽な事でも継続させるだけで楽では無くなるのだ。難儀が続いて、難儀さを感じなくなった頃には、自分の精神が変わっている。通り越してみた時に難儀さを感じなくなっている…。頑張る時の難儀さが日常になった時、難儀さが当たり前な事になっており、日常の違和ですらなくなっている。それがヒトの成長するという事である。
  成長するには継続という切なさが伴われる。どれほど容易い事でも継続は苦である。仕事もそうであって、仕事が身に付くとは継続する切なさが日常になってしまうから切なく感じなくなっているだけで、初めての人が行おうとすれば、それは大いに切ない事なのである。切なさの日常化を通して物事は自分のものになるし、自分のものになるころには切なさを切なさと感じなくなっている。
  そこのところの違いを石川さんは彼女の言葉で「成長させていただく」という表現をしておられた。まさに成長で、高齢で明日死ぬ人でも成長は可能な事で、それで当たり前なのだ。
  石川さんの卓球歴は20年以上である。この期間、切なく苦しいばかりでなく、前を行く人を追い越して喜んでも居られたはずだ。だが、卓球で勝つという事と切なく苦しい事とは別次元の事で、勝つという結果だけで良し、とするなら切なさの日常化は生まれず、石川個人の精神のタフさは生まれ得なかったはずだ。長い期間行い続けた結果と言える。
 私達の多くは即の結果を求める。その結果とやらも楽である事を望む。だがそういう人は自分の成長の為の肥しを自ら捨てている事に気づかない。切ない思いをしないで結果が手に入ると錯覚している。よしんば手に入ったとしても肥しが無いからすぐに萎れる。成長に要する期限は決められない。成長は永遠だからだ。本当の成長は、一つ成長を終えた時にまた成長すべきテーマが待っているものだ…成長とは学びとイコールだ。切ない思いをしないで生きられる訳が無い。生きるとはいつも誰でも切ないのだ。


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