(毎月発行の『連絡紙』より)

●令和6年2月号

年頭早々に言う事ではないだろと思っているが、はっきりと言いたい。目出度くもない事とは、生きるってことは面倒、という事だ。年頭に厳しい覚悟を為す人は極端に少ないのではあるまいか。それほど文明はヒト猿に便利をもたらし、その便利を殆どが苦痛からの解放に用いて来た…。
  現代文明が高度になったと考えるのは正しかろうが、便利はヒト猿に何をもたらしたか…を考えると、結果的に感性の鈍化しかもたらしていないと、気づく。感性の鈍化をヒトの進化とはとても言えない。単に難儀をしないで済ませ、楽に行動できるようになっただけではないか…それが現代の便利であるようだ。
  ヒトはひと猿に至る迄時間をかけて進化して来た。原人以降だって数十万年を経てきている。そして生き続ける為の工夫が便利に変わって、楽を提供する便利というものに至った。その結果、独力で生きる事を失念し、独力で考える事が面倒な事になった。生き続けねばならなかった数十万年前の感性は今や不要になったのかもしれないが、生きる事がどんな時代でも『苦しいもの』という事は不変だ。生きるとは自分で考え行動する事であって、自分で考えることが楽な訳がないからだ。自分で考えて行動する事で感性が逞しくなって来て、それがヒト猿の生命の強さの正体であったはずだ。
  だが近年は便利の数多い提供によってどうしてもという不便が減って、ヒトに考える苦痛を誤魔化す事を生み出させた。更には面倒な事を嫌がって他人や制度に任せ、独力で考え実行することを失念してそれに気づかない人が多くなっている様に見える。
  自分で考えることが難儀なのは当たり前のことだが、言われたことを自分で咀嚼しないで働く人が増えてはいまいか…自分で考えずに動く事を働くとは言わないはずなのに、それすら判らない。違いを見出す感性が落ちていればそうなるし、だから自分で考える辛さに耐えられず、言われたままに動いている気になっている。そういう働きの人が多いように思える。
  感性を鈍らせ、考えることがより苦痛になり、考える苦痛を避ける事で、より感性を鈍らせてしまう社会になってしまっているようだ。独力で生きる不便は便利を用いても補えないのに、それに気づかずにいて、便利で良いと錯覚してしまう。だから、殆ど考えないし面倒が嫌いになって行く。
  どれほど多くの便利を手にしたところで、生きる不便が消えるわけではない。生きる不便は自分と向き合う事からしか薄まらないし、自分と向き合う事が感性を磨く事に通じる唯一の方法であるから、感性が磨かれないと生きる安心に繋がらないのである。繰り返すが、生きる安心と便利とは殆ど繋がっていないのだ。
  現代が高度文明だとすれば、それは不便を便利に変えただけで、その分、自力で生きなくて済むようにしてしまった…。それが現代の高度文明という意味になる様だ。
  それ程不便は悪しきことなのか。悪い事としても不便だからこそ感性は磨かれる…感性の最低の維持はできる。対して生活が安定すると…生きて行く拘りすら失念してしまう。  目の前に矛盾とか間違いがあっても気づかなくなる。子育ても社会で行って当然のようになっている。先ず夫婦でそれから家族で、それから近所によるのが子育て支援なのにだ。学校はその事に疑問を感じて無い様だ。

現代の便利は難儀を消す意味だが、人間性をも消してしまう。生きる事に楽しいわけが無い。勝手に誕生させられて、自力で自分を立たせてゆくのだもの。ヒト猿は不本意の中で、活路を自力で作り出さねばならないのだ。

生きる事が便利に満ちても、考えて行動する苦痛は従いて回る…便利を手にする度にマニュアルで働き・働かされて、不満も感じなくなり、生きるという事を概念でしか考えなくなる。違和を感じている人は周りが感じないから、逆に異分子にされてしまう。

考える事ほど辛い事はないのに、それを避ける。避けて不満でも同じ明日が巡り来て…いつかその不満に慣れっこになり…考える世界が狭くなってゆき、自分で考えなくなってしまう。自活は自分で考える事からしか始まらなく、便利では補いえないのに…だ。


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