(毎月発行の『連絡紙』より)

●令和6年3月号

あるお笑いコンビの片割れがテレビ番組で「なにがそんなに忙しいんだ、お前ら!」と若手お笑い芸人にブチ切れた。
  若手芸人の中に、笑いの素材をネットで見出して、客の前でその素材を語って笑わせようとしている、という事を叱っているのだった。 
叱られた芸人だけの事ではないらしい。現代の若者は、音楽のイントロも、歌詞もロクに聴かないで、心動かされる情報を得ようとする者が多い…という事らしい。更には、そういう高学歴の芸人が増えていると言う。
  叱られた若手芸人は「ストーリーラインを聞き、満足できそうだと思ったらその本を読む」と言う人で、その理由は「面白くなかったら、読んだ時の時間がもったいないから」とあった。
  出演していた他の若手芸人も「ネットでここから面白いという裏付けがあれば頑張ってみようと思うけど」という発言で、この若手芸人の援護射撃をした。
  若手の彼らを叱っていた先輩芸人は「「ネット信じすぎだ!ネットが正しいと限らない。自分の感覚でやれっ!」と更にぶち切れた。…叱っていた先輩芸人の言う事がヒトの成長としては正常な姿であろうと筆者は思った。
  「だから最近の若手のお笑いはつまらなかったのか…」とお笑い好きの筆者は思った。  なんと言うか筆者は、熱のこもっていないお笑いが増えすぎている…と思っていたのだ。一方では、ベテランお笑いコンビはギャグを持たなくても見ている人を笑わせて行く。実感を味わった上で話をするからなのだ。他方、若手お笑いの中には、話題のテーマを自分の経験から探し出すのではなく。データから探していることが見えて来る…忙しいからデータを見て、そのデータの中から有益さやタイムリーな話題を探り出して、ステージ上で笑いとして対応するのである。
 芸でもないもので笑わせている事になる。無駄を省いて話題を探し、その話題を工夫加工してお笑いにし、仕事と呼んでしまう…筆者にはそういう彼ら若手の発想が理解できない。話題の加工でしかなくて、芸とはとても言えない。だから腹から笑えなかった…その訳が判った気がした。
  忙しい忙しくないのというその人の個人問題ではなく、生き方の根源に個人のが生きる問題の確信があるのだ。データを見て多数の中の中心にいれば現実感があって、だから生きている・働いていると錯覚してしまう…。そんな付け焼刃の生き方の存在できる理由がどこにあって、どんな意味があるのか…を考えると辛くなる。
  ヒトと違ってこそ自分じゃないか…。だからそれを独白して行けばお笑いになる、お笑いにならなくても、真実が見えて来る。忙しさの中にあえいでいて、そこに生まれる数多くの無駄が、自分の感性で加工され、新しいものが生まれ出て来る。だから自分が確かになって行くのにお笑いさんがその程度では笑いの中身が無くなるのも無理がない。
  そこを理解できていないと、小器用なだけの御話屋さんになってしまう…。実質に触れないで仕事としてしまうし、それに応分以上の報酬をいただく…そうなると、仕事をして成立させられてしまう。相手の迷惑を知る気もないから、やっている本人もそれで仕事が成立したと錯覚してしまう。
 仰々しく言えば、実感をあらせようとするなら、実感を見出し、実感の正否を確認してゆく事だ。それが生きる本来の姿であると思う。それは体で正邪を問う事であって、或る意味美意識への問いかけに似ている。百点取っても実感が伴わねば、自分にとっては零点…それが生きると言う姿であり、物の存在する姿である。
 お笑い界だけがこの種の錯覚で成り立っているのではない。大トヨタだっても、損保業界もそうだ。数字の上の安全をそろえれば、車として売れる。ヒトは数字で推し量れる訳がないのに、安全データを偽装したり、安全性テストをしなかったりして世界チャンピオンになったではないか。知っても知らずとも会社挙げて詐欺を働いて、チャンピオンとなってしまう。実質を問う事を失念しいているからそうなる。実質を体で感じ取って行く生き方でこそ、本人の責任で生き切る事になるのに。


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