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令和8年も6月となった。一年の半ばの月とすれば良いのだろうか…ともかく6月になったのだ。
6月の末日には大祓の儀式が待っている。ヒト型に切った白紙に息をかけ、一年前半期の罪穢れを祓う儀式だ。これは宮中でも行われている儀式である。
そうだよなあ、と思ってしまう。意識して冒す罪は、当然に刑法に触れる訳だから法律で裁かれる。収監されようがされまいが、国で罪の深さを祓うべく刑罰を処す。
対して大祓は神道の信仰がおこなう「祓い」である。人型の白紙にこすりつけ息を吹きかけたものを神主が祓って、その後に川に流したり、焼いたりする。
そんなことで、罪や穢れが消える訳がないと考える人が多いのだが、古来からそういうお祓いの儀式として伝わってきている。
神道のなかでも、抽象的な儀式である。儀式で罪や穢れが消えるのか…消せるのか…が問われるが、消えなくても消えると信じることが大事なのである。
罪穢れが消えようが消えまいが、それは信じる側の問題であって、儀式を行う側は、儀式が終われば消えたものとして終わったものにする…。でたらめではないのだ。
金もないのに言っては意味がないだろうが、現世では買えない事柄や物品で補い得ない出来事は確かにあって、現代でも分析しても意味のない事が結構とある。現におおいにひもじいとせつながる人はこの国では極めて少ない。
分析しても意味ないものにいつまでもこだわっていても意味がない…のが現実である。
何故意味がないのかを考えても答えは出ない。突き詰めて考えなければならない問題なのに、不明なままで推移している事は結構とある。不明なままで不明な社会にいきている事こそが人世のようだ。
何よりも、不明だから説明されてみても理解に及ばないこともある。そういった不可解さを通り越さねば日が暮れてしまうのも確かである。日が暮れてもそれを生きてゆくカテにする人は断然少なく、多くは、そんなもの…で思いきれるようだ。
何を言いたいのかと言うと、人なる存在あ極めて不可解な中に生きているという事だ。不可解ではなく判り切った事の中で暮らすことは、わかろうとするから苦痛になるのであって、それで良い、とするなら苦痛は感じなくなるのだろう。
だが人なる生物は自分が不可解な中で生きていることを切なく思う…不可解な点は人それぞれだが、何かしら不明さを感じているのも確かである。他の動物は、それほどに不明さを感じてはいない様だ。
その不可解さを説明するのが、学問である。解明できなくても分かろうとする思いがある限り学問はもとめられる。それが正しくなくても求められる存在なのである。
不可解さを意識してしまうと、生きることがぎこちなくなってしまう。他の生き物のように比較をしないで考えることも少なく或いはなくして生きているなら、寿命を全うするまで大きく悩まないのだろう。
他の動物を見ていると、不可解を解明して何が解決するのだろう…と疑問に思う。生きてゆく食料を確保するために悩むことないなっても、他の動物を貶めたりすることに悩まないし、当然に考えられないようだ。本能として授けられたモノ以外に悩むことをしない…様だ。
ヒト以外の動物は不可解な事は避けるか対決して敗れるか…しかないだろう。周りをだましたりはできない様だ。食料を手に入れる為以外に意図的に行動をすることはない。それも本能として先天的に授かって生まれてくるようだ。
動物も植物も同じパターンで生まれて育って、寿命を迎えるようだ。あえて自分だけ長生きをしようと努力しているのではないように見える。
生き抜くという思いは本能以外に強く持っていない様だ。そうやって日々を空腹ながらも死ぬまで生き続ける…幸福と言えるのかもなあ。
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